昨年末あたりからバーチャルユーチューバーの”中の人”を公開して中の人がそのまま活動をしようとする動きが何件かある。
具体例を挙げるのはここでは差し控えるが、長期活動してきた人たちが多いのではないかと思う。そもそも数件しか捕捉していないが。
もともと自分は、バーチャルユーチューバーのことを一種の着ぐるみだと思っている。この書き方をすると以前非難されたことがあるので、少し詳しく説明させて頂く。
一言で着ぐるみと言っても色々なスタイルがある。
例えば彦根市のマスコットキャラクター「ひこにゃん」のように、特に喋ることもなく、おそらく複数人が持ち回りで中に入る着ぐるみ。
「ガチャピン」のように、中の人は複数居るように思われるが、一定の声で喋る着ぐるみ。あるいはキャラクターショーのウルトラマンのような、事前収録した声に合わせて演技をするもの。
「ふなっしー」のように、中の人が固定で、中の人がそのまま喋るが、明らかに濃いキャラ付けで動く着ぐるみ。
そしてユーチューバー界隈で言えば、「びわ湖くん」のように、もはや外身を脱いでいることも多く本人そのものではないのかと思う状態の着ぐるみ。
自分がバーチャルユーチューバーを着ぐるみに例えているとき、どれに相当すると考えているかと言えば、個々のVTuberによってどのレベルもあり得るが、基本的にふなっしーぐらいだろうと思っている。
さてバーチャルユーチューバーがインターネット上に存在するふなっしーの亜種だという話になったとき、ふなっしーが着ぐるみを脱ぐことにどれだけの意味があるのだろうか、というのを考えてほしい。
ふなっしーだとキャラが濃すぎる、推しをふなっしーに例えてほしくないというなら、あなた好みの顔出しNGのアーティストなんかを思い浮かべてもらって構わない。
それが今、バーチャルユーチューバーが中の人を公開し始める理由に繋がると思う。
個々の事情を推し量るのは難しいが、純粋に中の人が直接パフォーマンスした方が良い物が出来るとか、着ぐるみの運用が大変だとか、中の人として公表したい思いが強くなったとか、着ぐるみでは出にくい仕事があるとか、色々な理由があるだろう。
それをファンはどう受け止めるべきか。受け止めるべきという言葉を使うのはよくない。ファンはどう受け止めたって構わないと思う。個々の人間の感情は自由でいい。
別に何事もなかったとそのままファンを続けても良いし、活動方針の転換に疑問を持ってもいい。多くの場合は「ふーん、公表するんだ」で終わる話だと思う。
個人的には、純粋なバーチャルユーチューバーというコンセプトを捨ててリアルとバーチャルを両立するということについて「良い所だけつまみ食いしようとするのは都合がよくないか」と思うところはある。しかし明確に否定したり、逆にリアルが大歓迎というわけでもない。
バーチャルユーチューバーブームの初期から活動しているような人たちについては、バーチャルというだけで耳目を集められた時代がとっくに終わり、なぜバーチャルのままでいるのか、というのを問われる時期が来たのだろう。前回の記事でも扱ったが、バーチャルであることの不利益と向き合う2024年であり、その解決の一つとしてリアルも使っていく、という方針を取り始めた人たちがいる。
そういう選択について、改めてファン個々の感情は自由だ。が、それを他人に強制してはいけない。各人がどういう感情を得たのかをきちんと覚えておき、周囲に流されないことが大事ではないかと思う。